木炭のブログ

理学療法士です。趣味はロードバイク。最近トレイルランニングを始めました。ペットにハリネズミ飼ってます。

アドラー心理学を読んで考え方が180°変わった話

 

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みなさん、こんにちは。

 

最近、「嫌われる勇気」という

アドラー心理学関連の本を読み、

私の考え方がガラッっと

変わりました。

 

私はこれまですぐにイラっと

してしまう、いわば短気な

性格だったのですが、

この本を読んでからは

考え方がガラッと変わり、

以前ほどイラっとすることが

なくなりました。

 

この本を読んで学んだことや

感じたことを書いていきます

ので、もし「今の自分(の性格)

を変えたい」と考えている人がいれば、

参考にして頂ければ幸いです。

 

 

 はじめに

アドラー心理学とはなにか?」

については、検索するとたくさん

出てくると思いますので

ここでの説明は割愛させて頂きます。

 

アドラー心理学の考え方は

たくさんあるのですが、

とりあえず大まかな部分を

理解するために必要と思われる

考え方を書いていきます。

 

それがこれらになります。

  • 目的論
  • 課題の分離
  • 「善」の意味
  • 優越性と劣等性
  • 性格(ライフスタイル)

 

それでは、これらの

ひとつひとつについて

解説していきます。

 

目的論

世間一般では「原因論」という

考え方が主流です。

 

例えば、「子供の頃に音痴と言われた。

だから人前では歌えない。」という

人がいたとします。

 

原因論での考え方では、

  • 音痴と言われた(原因)

      ↓

  • だから人前では歌えない(結果)

という風になります。

 

しかしアドラー心理学では

この考え方(原因論)を

否定しており、

次のように考えます。

  • 人前で歌いたくない(目的)

      ↓

  • 子供の頃に音痴と言われた

   ことを理由に使おう

 これが目的論の考え方です。

 

少し「ん?」となり、

理解するのが難しいと思います。

 

アドラー心理学(目的論)では

この人は「歌えない」のではなく、

「歌いたくない」のだと解釈します。

 

ではなぜ「歌いたくない」

のでしょうか?

 

その理由には様々なものが

考えられます。

  • 他人に歌が下手だと思われたくない
  • 自分の声が気持ち悪く、自信がない

 

いずれにせよ、何かしらの理由により

「歌いたくない」という目的があり、

その目的を達成するために

「子供の頃に音痴と言われた」

という経験を目的を達成するための

手段(理由)に使ったのです。

 

「そんなこと言っても

音痴と言われて人前で

歌えないのは事実だ!」

と言う人もいることでしょう。

 

確かに「音痴と言われた」経験が

「人前で歌えない」ということに

影響を与えているのは事実です。

 

しかしあくまで「影響を与えているだけ」

であり、人前で歌えないことを「決定」

している訳ではありません。

 

人前で歌えないことを「決定」したのは

他の誰でもない「あなた」なのです。

 

音痴と言われたとしても、

音痴という事実を受け入れ

歌を練習したりとか

気にせず楽しく歌うとか

選択肢はいくらでもあります。

 

アドラー心理学では経験

(ここでいう「音痴と言われた」)

にどういう意味付けをするか

が大切だと言っています。

 

「音痴と言われた」経験に、

  • 恥ずかしい
  • かっこ悪い

などといったネガティブな

意味付けをするのではなく、

  • 音痴であると知れた
  • 音痴だから何なんだ

などポジティブな意味づけを

する方が、その後の行動も

ポジティブなものになります。

 

課題の分離

これは簡単にいうと

「自分で決定できることと

決定できないことを分ける」

ということです。

 

「馬を水辺に連れて行く

ことはできるが、馬に水を

飲ませることはできない」

という言葉があります。

 

これを「課題の分離」

に当てはめると、

  • 馬を水辺に連れて行く

   →連れて行くか行かないか

    自分で決定できる

  • 馬に水を飲ます

   →水を飲むかどうかは

    馬しだいで自分には

    決定できない

ということになります。

 

そして「自分で決定できないことに

関しては介入するべきではないし、

無駄なこと」として考えます。

 

例を挙げて説明します。

勉強をしない友人がいます。

今度のテストは難しく、

このテストで赤点をとると

留年してしまいます。

 

ここで、「今度のテストは

難しい。勉強しないと留年

してしまうかもしれないよ。」

と注意喚起するかしないかは

自分で決定できることであり、

「自分の課題」となります。

 

一方「友人が勉強するかどうか」は

自分では決定できないことであり、

「友人の課題」となります。

 

ここでしつこく友人に

「勉強しろ!」と言う、

つまり友人の課題に介入

してしまうのは良くありません。

 

人は自分の課題に踏み込まれると

嫌悪感を示してしまいます。

 

「勉強した方がいいよ。」と

促すだけにとどめ、

それ以上は介入しないように

しましょう。

 

ここで注意したいのは、

「突き放すわけではない」

ということです。

 

友人が助けを求めてきた際に

「援助」という形で

いつでも手を差し伸べられる

ようにします。

 

  • おすすめの参考書を教える
  • 勉強を教える

などでしょうか。

 

「でも、勉強した方がいいと

促したのに、後から助けを

求められても釈然としない。」

と感じられる方もいるのでは

ないでしょうか?

 

このような感じ方をされる人は、

次のような考え方をしがちです。

 

「親切で言ってあげたのに、

そうしなかったのはあなた

じゃないか。」

という考え方です。

 

この考え方は、アドラー

心理学として考えた時に

2つの間違いがあります。

 

1つ目は、

「言ってあげた」と

上から、つまり

自分≫友人と優劣を

つけてしまっている

ことです。

※「優劣に関しては」後で説明します。

 

2つ目は、

「勉強した方がいい」と

促したのに、友人が

自分の思い通りの行動を

取らなかったことに対する

不満を抱いているという

ことです。

 

促しに対し「勉強するかどうか」

は友人の課題であるため

思い通りにならなくて当然

なのです。

 

「それでも納得できない!」

という人はその友人と関係を

解消してはどうでしょうか?

 

そもそも、その友人と関係を

結んだのは誰かの命令では

なく、あなた自身で決定した

ことです。

 

その人と友人でいることは

損得勘定ではないでしょうし、

もしそうであるなら、それは

友人とは呼べないでしょう。

 

長くなりましたが、

最終的に「勉強するかしないか」を

決めるのは友人です。

 

「自分の課題」か「相手の課題」か

を明確に分離し、「相手の課題」には

介入しないようにしましょう。

 

「善」の意味

「善」という言葉を

辞書で引くと

  • 正しい
  • 道徳にかなった

という意味が出てきます。

 

しかし、ギリシャ語での

この「善」という言葉は

  • (自分の)ためになる

という意味であり、ここに

道徳的な意味はありません。

 

アドラー心理学では、

この「ためになる」という

意味で「善」という言葉を

使用します。

 

例えばコンビニで傘を

盗んだ人がいたとします。

 

傘を盗むことは、

道徳的には「善」では

ありませんが、

アドラー心理学として

考えた時、盗んだ当人に

とっては傘を盗むという

行為は「善」になります。

 

その理由は、傘を盗むことで

「これで自分は雨に濡れなくて

済む」となり自分にとって

「ためになる」からです。

 

先程の「傘を盗む」といったように

この世は「行為としての悪」で

あふれています。

 

しかし悪事を働く人たちも

純粋に悪を求めて実行している

のではなく、「目的があって」

実行しています。

 

例えば銀行強盗をした人が

いたとします。

この人は純粋に銀行強盗を

したかったのではなく、

お金が欲しいためにやった

のかもしれません。

 

「それでも愉快犯なんかは

純粋に銀行強盗をしたくて

したんじゃないのか?」

と考える人もいるでしょう。

 

しかし、純粋に悪を求めて

実行する人はいません。

 

一見愉快犯の犯行のように

思われても、「目立ちたかった」

「警察と対立したかった」など

必ず何かしらの「目的」がある

はずなのです。

 

その目的を達成するための

手段(理由)として銀行強盗を

決定したのであって、

この人にとって銀行強盗という

行為は「善」となります。

 

 したがって、世の中にある

犯罪やマナー違反などは、

自分から見ると「悪」に

なるとしても、実行している

当人にとっては「善」と

なるのです。

 

優越性の追求と劣等感

人は誰しも「優れていようとする」

欲求があり、アドラー心理学では

これを「優越性の追求」と

表現しています。

 

「優れていようとする」ことは

とても良いことなのですが、

多くの人は「今の自分と比べて」

でなく、「他人と比べて」

優れていようとする傾向にあります。

 

つまり「他人よりも優位に立ちたい」

という気持ちになってしまいがち

ということです。

 

さらには「怒り」という感情は

他人よりも優位に立つための

「道具」として使用されると

言っています。

 

この例としては、

最近話題になっている

煽り運転」があります。

  •  自分の車の方が高級だ
  • 自分の方が速い

などという考え(優越性)があり、

それなのに、

  • 自分の車を抜かした
  • 自分の前をトロトロ走ってる

といった行為に対し、自分の

優越性を示すためにクラクション

を鳴らしたり、パッシングをしたり、

車間距離を詰めるといった行動を

取ります。

 

さらにはこの行動をやりやすくする

ために、「怒り」という感情を

作り出します。

 

アドラー心理学では、

人はみな対等の存在であり、

そこには上下関係も優劣も

存在しないとしています。

 

したがって「優越性の追求」は

他人ではなく、今の自分よりも

優れていようとするべきもの

であると考えます。

 

上で述べた「優越性(の追求)」と

対になるのが「劣等感」です。

 

「劣等感」も「優越性(の追求)」と

同様に誰にでもあるものと

言われています。

 

そしてアドラー心理学では、

この劣等感は、「客観的な事実」

ではなく、「主観的な解釈」である

というように考えています。

 

「嫌われる勇気」にある

例えをそのまま引用します。

 

身長160cmの成人男性が

いたとします。

 

日本人男性の平均身長は

約170cmですから、

客観的に見ればこの男性は

「身長が低い」ことに

なります。

 

しかし大切なのは、

そういう「客観的な事実」

ではなく、あくまで

「主観的な解釈」だと

アドラーは言います。

 

「嫌われる勇気」の

本の中では、身長が

低い(小柄である)おかげで、

相手の警戒心を解くことが

でき、気兼ねなく話をする

ことができるという風に

解釈しています。

 

これを、身長が低いために

  • かっこ悪い
  • 子供扱いされる

などという解釈をしてしまうと

さきほどの「劣等感」となって

しまいます。

 

ちなみに先ほどの

煽り運転の例で述べたように、

不適切な方法で相手より

優位に立ちたい、立たなければ

気が済まないと考えている人は

「優越コンプレックス」がある

と言います。

 

この「優越コンプレックス」

がある人は、なにかしらの

強い劣等感を持っています。

 

強い劣等感に苦しみながらも

努力や成長といった健全な手段に

よって「優越性」を満たすことが

できないために、偽りの優越感で

ごまかしているのです。

 

他の例としては、

有名大学の学生に対し、

「頭は良いけど、

コミュニケーションは下手だよね。」

と言う人が挙げられます。

 

これは、勉学では劣っているという

劣等感をコミュニケーションでは

優れているという優越感で

ごまかしているのです。

 

「優越性の追求」は、

他人と比べてでなく、

今の自分と比べて

実施するようにしましょう。

 

 性格(ライフスタイル)

「私はこういう性格だから」

という人がいます。

 

その性格に満足しているので

あれば問題はないのでしょうが、

自分の性格に不満を持っている、

変えたいと思っている人も

少なくないと思います。

 

アドラー心理学では「性格」の

ことを「ライフスタイル」と

表現しています。

 

そしてアドラー心理学では、

「性格(ライフスタイル)」は

変えることができるとしています。

 

まずこのライフスタイルですが、

アドラー心理学では

10歳前後に自分自身で選択した

ものと考えられています。

 

つまり、意識下であるか

無意識下であるかは分からないが、

今の自分の性格(ライフスタイル)は

自分自身で選択、決定したものであり、

したがって変えることも可能であると

しています。

 

 例えば混雑した場所で

他人に自分の足を踏まれた

とします。

 

原因論の考え方では、

  •  足を踏まれた(原因)

      ↓

  • だから怒鳴った(結果)

 という風になりますが、

アドラー心理学ではこの

原因論の考え方を否定しており

目的論で考えます。

 

すると、

  •  怒鳴りたかった(目的)

      ↓

  • 足を踏まれたことを

    理由にして怒鳴った

 となります。

 

ではなぜ怒鳴りたかった

のでしょう?

 

それは先ほど述べた

誰にでもある「優越性の追求」

これを満たしたかったからです。

 

怒鳴ることで相手を威圧、

屈服させ自分が正しいと

認めさせることで

自分が優位に立つためです。

 

さらには「怒鳴る」ために

「怒り」という感情を

作り出したのです。

 

まず足を踏まれたとしても

ダメージがないのであれば

スルーすればいいですし、

謝って欲しいのであれば

怒鳴らずに、普通に

そう伝えれば良いだけの

話です。

 

それらを面倒に感じ、

簡単に相手より優位に

立つために、「怒り」という

感情を作り出し、怒鳴ったのです。

 

つまりこの足を踏まれた男性は、

「優越性の追求」を満たすために

怒りという感情を使う傾向にあり、

それが自分にとってためになる、

つまり「善」と判断したため、

短気な性格を選択、決定したのだと

考えられます。

 

しかし、「優越性の追求」はあくまで

今の自分よりも優位になるため

(成長するため)に追求するもので、

他人よりも優位になるために

追求するものではありません。 

 

このことを理解していれば、

「怒鳴る」必要はなくなり、

「怒り」の感情を作り出す

こともなくなります。

 

そうなれば、この人は

もはや短気な性格では

なくなる(変わる)でしょう。

 

変える(変わる)ことの勇気

それでも、

「何度も性格を変えようと

したけど変えられなかった!」

という人がいることでしょう。

 

しかし、それも自分自身が

「性格を変えないでおこう」と

選択・決定しているからなのです。

 

なぜかというと、性格を変えないで

いることが自分自身にとって「善」、

つまり「ためになる」と判断している

からです。

 

そう判断する多くの理由としては、

「性格を変えたことで起こる変化」

が怖いからです。

 

例えば何でも周りに合わせて

しまう性格の人がいたとします。

 

その人は自分のそんな性格を

嫌っており、変えたいと思って

います。

 

もし、必ずしも周りに合わせない

性格に変えた時にどのようなことが

起こりうるでしょうか。

 

ノリが悪くなったと言われ、

友人関係が希薄になるかも

しれません。

 

他人と違う意見を言うことで

グループから孤立するかも

しれません。

 

多くの人は、上のような

「漠然とした不安」に

恐怖心を抱き、「それなら

今のままでいいか」と

変える(変わる)ことを

やめます。

 

そのため、変える(変わる)

には「勇気が必要」と

アドラー心理学では

言っています。

 

アドラー心理学で考えると

「周りに合わせない」のは

自分の課題ですが、

「それによる周りの反応・行動」

は相手の課題であり、自分には

どうすることもできません。

 

「今の自分の性格を変えられない」

のではなく、「恐怖心のために

変えようとしていない」のです。

 

変える(変わる)ことは容易では

なく、「勇気」が必要なのです。

 

私の考え方が変わった話

最後に私の考え方が変わった

話をさせてください。

 

私の性格は短気ですが、

イラっとしても「怒鳴る」など

表に出すことはありません。

 

あくまで内心でイライラ

しているだけです。

 

ニュースなどで世の中の犯罪や

マナー違反を見るたびに、

イライラしていました。

 

しかし、ある日「嫌われる勇気」

というアドラー心理学関連の本と

出会い、私の考え方が変わることで

イライラが減りました。

 

 アドラー心理学で考えると

私自身が、短気だが

それを表に出せない性格

(ライフスタイル)を選び、

決定したことになります。

 

ではなぜそのような性格を

選択、決定したのか

考えてみました。

 

まず私はすごく怖がりです。

他人に嫌われることや、

敵意を向けられることに

ひどく怯えています。

 

しかしこの「怖がり」な

一面をいつの日か「恥ずかしい」

と思うようになりました。

 

「本当は怖がりなんだけど、

周りからはそう思われたくない」

という風にです。

 

そこでたどり着いた性格が

「短気」なのです。

 

怒っていると周りからは

怖がっているようには

見えないし、

他人に嫌われたり

敵意を向けられたりしても

「いや、怒ってるのは

こっちだし。こっちも

お前のこと嫌いだし。」

とごまかすことが

できたのです。

 

私は「嫌われる勇気」を

読むことで、このように

自己分析ができました。

 

私はこの性格で

色々とトラブルを起こしたり、

巻き込まれたりしてきました。

 

なのでこの性格を強く

変えたいと思っています。

 

考え方は変わりましたが、

実践するのは簡単なこと

ではありません。

 

今でも「怖がり」なことを

恥ずかしいと思っていますし、

それを隠すために(偽りの)

怒りの感情を作り出して

ごまかしそうになります。

 

時間は掛かるでしょうが

自分自身の考え方・感じ方を

変えることで、不満のない

性格になりたいと思います。

 

この記事を読んで下さり、

今の自分を変えたいと

思っている人たちの

助けになったり、

アドラー心理学に関心を

示してもらえれば、

これほどうれしいことは

ありません。

 

それでは、本日はこのへんで。

ではでは(^^)/

 

 

 (※他にこんな記事も書いています☟)

jitensha-bike-harinezumi.hatenablog.com