木炭のブログ

理学療法士です。趣味はロードバイク。最近トレイルランニングを始めました。ペットにハリネズミ飼ってます。

ベックオンフェスタで勝つための作戦(ロードバイク)

 

いよいよ目前に迫った

ベックオンフェスタ!

 

私はC5Lに出場する。

 

4周回、計6.4kmを走る。

 

私は数年前にも同じカテゴリ

に出場したことがある。

 

その時の経験を活かして

今回の作戦は、

  • 集団前方に位置取る
  • ホーム・バックストレート

  では誰かの後ろに付く

  • コーナー前に踏み過ぎない

の3つである。

 

前回は、バックストレートでの

向かい風が強く、集団が中切れを

起こしたこともあって、前に

追い付くことができなかった。

 

その反省を活かし、

集団前方に位置することで

中切れを起こしても影響はなく、

強い向かい風が予想される

ホーム・バックストレートでは

誰かの後ろに付き、ドラフティング

効果で負担を軽減する。

 

もしホーム・バックストレートで

先頭にいた場合(ないとは思うが…)は、

体力温存のために踏み過ぎないよう

に注意し、抜いてきた人の後ろに

すぐ付くようにする。

 

また、集団前方をキープもしくは

前に追い付こうとするあまり

コーナー前で無駄に踏むことは

止める。

 

もちろん、踏んででも位置を

キープしたり前に追い付く

必要がある時もあるが、

常に踏んでいては体力が

もたない。

 

コーナー前では速度が落ちる

ため、なるべく踏まずに

位置をキープできるよう

心掛ける。

 

以上が私の作戦だ。

(作戦と呼べるほどの

ものではないが…)

 

C5Lには60名ほどの選手が

出走するみたいなので、

半分の30位以内には

入りたい。

 

当日出場される方は

事故のないよう

頑張りましょう!

車の運転でイライラする理由とその解決法(アドラー心理学の考え方を基に)

f:id:mokutan-bike:20190424211953j:plain

 

みなさん、こんにちは。

木炭です。

 

最近のニュースを見ていると

煽り運転が多いですよね。

 

みなさんも煽り運転とまでは

いかずとも、運転中にイライラ

することがあるのではないでしょうか?

 

しかし、イライラしたり煽り運転

すると事故を起こす確率がグンと

高くなります。

 

そして事故を起こしてしまった時、

必ず後悔することになります。

 

イライラ(怒り)という一時の

感情で行動しても、良いことは

ありません。

 

そこで本日は、

  • 車の運転でイライラする理由
  • イライラしないための考え方

についてにアドラー心理学の考え方を

基にお話していきたいと思います。

 

 

アドラー心理学の考え方

 

アドラー心理学を基に、

「車の運転でイライラする理由」を

理解するためには、次の2つの

考え方を知っておく必要があります。

  1. 「優越性の追求」
  2. 「善」の意味

それぞれについて説明していきます。

 

「優越性の追求」

 「優越性の追求」とは、

  • 向上したいと願うこと
  • 理想の状態を追求すること

というニュアンスで、

誰もが持っている欲求であり、

この欲求があるからこそ、

人は成長することができます。

 

ところが間違った「優越性の追求」

では、「優越性の追求」という欲求を

満たすのに努力などの正当な手段を用いず、

他人と比較することで安易に欲求を

満たそうとします。

 

そのような手段で欲求を満たそうと

する人は、決まって自分よりも

劣っている(勝手に自分よりも

劣っていると決め付けているだけ

ですが)人をターゲットにします。

 

そして自分よりも劣っている人と

自分自身を比較し、優越感に浸る

(偽りの優越性を満たす)のです。

 

ここで具体例を交えて説明します。

 

ある男性が、「カッコよくなりたい」

と思っています。

 

正しい「優越性の追求」では、

おしゃれを学んだり、筋トレをしたり、

文学書を読んだりとカッコよくなるための

努力をします。

 

ところが間違った「優越性の追求」では、

  • あいつは俺より身長が低い
  • 俺より太っている
  • 俺より頭が悪い

と他人と比較してあたかも

自分の方が優れているという

錯覚で偽りの優越性を満たします。

 

そもそも「カッコいい」とは何でしょうか?

  • おしゃれである
  • 勉強ができる
  • 身長が高い 

こと=カッコいい、なのでしょうか?

 

それは人によって違う、つまり主観に

よります。

 

なので、そもそも比較するものが違うので

比較する意味は全くありません。

 

まとめると、「優越性の追求」とは、

  • 向上(成長)したいという欲求
  • 誰もが持っているもの
  • 他人と比較して欲求を満たすのは間違い

となります。

 

「善」の意味

「善」の意味を調べると、

  1. よいこと
  2. 道義にかなっていること

とあります。

 

しかし、アドラー心理学での

「善」の意味は少し違います。

 

ギリシャ語での「善」の意味は、

「(自分の)ためになる」という

意味でここに道徳的な意味は

含まれていません。

 

そしてアドラー心理学では、

この意味で「善」を使用しています。

 

アドラー心理学における「善」の

考え方を具体例を交えて説明します。

 

コンビニで傘を盗んだ人がいた

とします。

 

傘を盗む行為は、

道徳的には「悪」です。

 

しかし、盗んだ当人にとっては

雨に濡れなくて済むという

自分にとって「ためになる」行為

なので「善」となります。

 

傘を盗まれた人は、盗んだ人のことを

「悪」とし、結果的に自分のことを

「善」とします。

 

傘を盗んだ人も先ほどの理由から

自分のことを「善」としています。

 

もしこのふたりが対立しても

お互いが自身のことを「善」、

つまり「正しい」と考えているため

分かりあうことは困難ですし、

分かりあうにはかなりの時間と

労力が必要となることでしょう。

 

まとめると、

  • 「善」とは「(自分の)ためになる」という意味
  • そこに道義的な意味合いはない
  • 悪いことでも本人にとっては「善」である

となります。

 

 車の運転でイライラする理由

まずイライラする場面ですが、

これは人によって違うと

思います。

 

ここでは例として、

「車を運転していて左折しようとした

あなたが、歩行者用信号は赤にも関わらず

渡ってきた人に対してイライラした。」

という場面を想定して考えていきます。

 

ここであなたがイライラする理由は、

先ほど説明した、

  • 一般的な「善」の考え方
  • 間違った「優越性の追求」

があるからです。

 

まず、「信号無視」は法律的には

アウトなので一般的な「善」の

考え方では「悪」になります。

 

歩行者が「悪」なので、結果的に

自分の行為は「善」となります。

 

すると、間違った「優越性の追求」

により、自分は相手よりも優れて

いる(正しい)と思ってしまいます。

 

そして「自分は相手よりも

優れている(正しい)」ということを

相手に分からせるために

ラクションを鳴らしたり、

過剰な接近をしたりという行動を

起こします。

 

それらの行動を起こすために

怒りという感情を作り出している

アドラー心理学では考えます。

※私は「怒り」をアルコールや麻薬

 のようなものと考えています。

 「怒り」により脳のリミッターが

 外れ、普段言えないことやできない

 ことをやってしまう、といった

 解釈です。

 

実際に行動を起こすに至るかどうかは

その人によりますが、いずれにせよ

怒りという感情を作り出しており、

それがイライラする理由です。

 

イライラしないための考え方

では、どのように考えれば

イライラしなくて済むのでしょうか?

 

先ほどの「イライラする理由」を

解決すれば良いので、

  の意味を理解する

  • 正しい「優越性の追求」を

  実施する

を実践するようにします。

 

アドラー心理学における「善」の意味を理解する

まず、歩行者はなぜ

信号無視をしたのでしょう?

1.赤信号は渡ってはいけないという

   ルールを知らなかった。

2.信号を見ていなかった。

3.赤信号だが車が来ていないと

   思ったので渡った。

4.車よりも歩行者優先なので渡った

5.自分は特別で、何事においても

   優先されるべきだから渡った。

などの理由が考えられます。

 

1.はかなり確率が低いですが、

ゼロではありません。

 

3.は周りを見ておらず、

あなたが運転する車に

気付いていなかった

ケースです。

 

1~3の理由であれば、

本人に悪気はなさそう

なので、事実を伝えれば

良さそうです。

 

しかし、問題は4.と5.の

場合です。

 

4.の場合は相手が交通ルールを

勘違いしているだけの可能性も

ありますので、事実を伝える

だけで良い場合もあります。

 

しかし、「自分は間違っていない!」と

頑なに言い張る「4」の人や

「5」の人は、事実を伝えても

無駄なケースがほとんどです。

 

なぜならば、本人にとって

その行動は「善」であり、

何なら車を運転している

あなたこそが「悪」と

認識しているからです。

 

そこに法律をはじめとする

ルールや道徳心などは

一切関係ありません。

 

自分のためになるかどうか

だけが判断基準になっています。

 

したがって、どんなに相手が

悪いことをしていたとしても、

相手はそれを「善(正しい)」と

思っている、ということを

頭に置いておいてください。

 

正しい「優越性の追求」を実施する

 正しい「優越性の追求」とは、

  • 向上(成長)したいという欲求
  • 他人と比較して満たすものではない

というものでした。

 

それを踏まえた上で

考えてみてください。

 

先ほどの信号無視をした歩行者

に対して、怒りの感情を作り出し、

さらにはクラクションを鳴らしたり、

過剰に接近することで、成長できる

と思いますか?

 

私はそうは思いません。

ラクションを鳴らしたり、

過剰に接近することで得られるもの

が何かあるでしょうか。

 

なにをもって「成長した」と感じる、

つまり「優越性の追求」という欲求を

満たせるのかは人によって違います。

 

他人と比較せず、自分が成長できる

と思う行動をとる(正しい優越性の追求

を実施する)ことが何よりも大切です。

 

イライラしないための考え方(まとめ)

私は、アドラー心理学の本を読んで

人はみな自分の「善」に従って行動

していることを知りました。

 

人は自分の「善」に従って行動

しているので他人から注意されたり、

諭されたりすると、例えその指摘が

正しくとも反発してしまうものです。

 

であれば、私が自分の「優越性の追求」

を満たすためにできることは、

相手が赤の他人であれば「関わらない

ようにする」ことです。

 

関わらないことで、怒りの感情を

作り出すこともなく、争うことも

なくなるので、私としては「成長

できた」と感じることができます。

 

相手が職場の同僚や友人、家族であれば

さすがに関わらない訳にはいかないので、

「事実を伝える」ことだけをします。

 

あくまで「事実を伝える」だけで、

無理に相手の考えや行動を変えようと

したりはしません。

 

事実を伝えたことによる相手の

考えや行動を知ることができれば、

「次からはこう伝えよう」とか

「もうこの人に事実を伝えるのは

止めよう」などの対策を練ることが

できるので、私としては「成長できた」

と感じることができます。

 

そうすることで、不思議と

イライラすることは減り、

やがてはイライラすることも

なくなるでしょう。

 

さいごに

いかがでしたでしょうか?

 

車の運転では、どうしても

イライラしてしまいがちです。

 

それは自分の行動(運転)が

「善」であり、それに沿わない

ものが「悪」という考え方に

なってしまっているからです。

 

しかし、自分の行動(運転)が

「善」であるのと同様に、

相手の行動(運転)もまた「善」

なのです。

※例えそれが交通違反であったり、

マナー違反であってもです。

 

イライラしてしまい、

事故を起こしてしまった場合、

それは「自分が成長するために

必要なことだった」と思うことが

できるでしょうか?

 

「自分が成長できる行動とは

なにか?」を常に意識して

生きていれば、自ずと怒りの

感情を作り出す(イライラする)

意味のなさが分かってくると思います。

 

それでは本日はこのへんで。

ではでは(^^)/

 

  

 

ブログランキング・にほんブログ村へ 

 

相手の反応に一喜一憂しない生き方(アドラー心理学の考え方を基に)

f:id:mokutan-bike:20190417223253j:plain

 

みなさん、こんにちは。

木炭です。

 

みなさんは周りの人の反応に

一喜一憂して疲れていませんか?

 

以前の私はとにかく周りの反応が

気になり、言えたいことが言えず、

やりたくないことをやってきました。

 

そのせいで精神的に疲れてしまい、

半年間仕事を休んだことも

ありました。

 

ここ最近の話ですが、

「嫌われる勇気」という

アドラー心理学関連の

本を読み、考え方がガラッと

変わることで気持ちが楽に

なりました。

 

今日は、アドラー心理学の本を

読んで変わった私の考えを

みなさんにお伝えし、精神的に

疲れている方々が少しでも楽に

なれば幸いです。

 

 

周りの反応が過度に気になっていた以前の私

以前の私は、過度に周りの

反応が気になっていました。

 

相手の表情や口調が少しでも

変わったりすると、

「何かマズいことをしてしまった!」

「相手を怒らせてしまった!」

と感じ、それからしばらくは

「あの態度が良くなかったのでは?」

「あの話し方がダメだったのかな?」

など悶々と考え込んでしまい、

他のことは手につかず、酷い時は

夜も眠れなかった程でした。

 

そこで私がとった対応策は、

「とにかく丁寧に接する」

というものでした。

 

市販されている礼儀・作法の

実用書を何冊も読みあさりました。

 

結果として、「ここまでやってる

のだから大丈夫。」とごまかす

ことで、少しは気持ちが楽に

なりました。

 

しかしそれは短期的なもので、

そう長続きはしませんでした。

 

やはり「偽りの自分」というの

でしょうか、あくまで演じている

だけなのですごく疲れました。

 

それに丁寧なのは良いことですが、

誰に対してもそう接していたため、

相手との関係性も希薄なもので

しかありませんでした。

 

汚れを上から塗りつぶすような

応急処置的な私の対応策は

時間とともに剥がれていき、

すぐに限界を迎えました。

 

そして、半年間の休職期間などを

経て今に至ります。

 

アドラー心理学の本に学んだこと

つい最近の話ですが、たまたま

職場にあった「嫌われる勇気」

というアドラー心理学の本を

読みました。

 

そこに書いてある内容は

驚かされるものばかり

でしたが、本日はその中の

一部をご紹介します。

 

まず「世の中は、あなたの

主観である」ということです。

 

例えば、気温が20℃の日があったと

して、その日を暑いと感じる人も

いれば肌寒いと感じる人もいます。

 

雨の日でも、鬱陶しいと感じる人も

いれば風情があると感じる人も

います。

 

このように、世の中はあなたの

主観でできている(作りあげている)

という考えです。

 

そしてその考えを基にすると、

「世の中は理不尽だ」とか

「この世は生きづらい」とか

感じている人は、他でもない

自分自身が世の中をそのように

作りあげているということに

なります。

 

ここで注意してもらいたいことは、

あなた自身が世の中を悲観的に

見ていたとしても、それが

「間違い」だとか「悪い」とかいう

訳ではないということです。

 

人はなにかと物事に対して

「善か悪か」「正しいか間違いか」を

決めようとします。

 

有名な話でコップに半分入った水が

多いと感じるか少ないと感じるか

というものがあります。

 

多いか少ないかは主観によるものであり、

そこに「正しい」とか「間違っている」と

いった概念は存在しません。

 

しかし人というものは、どうにも

白黒はっきりしたいようで、

そのために、より多くの人が「正しい」

といった方があたかも正しいと錯覚

するような、いわゆる「多数決」という

ルールを決めました。

 

繰り返しますが、多くの人が正しいと

言ったとしてもそれが本当に正しい

とは限りません。

 

水が多いか少ないかは、

あなたが決めることなのです。

 

話が逸れましたが、

世の中を「楽観的」に見るか、

「悲観的」に見るかはあなた

次第であり、それに正しいも

間違いもありません。

 

しかし、自分が見ている

悲観的な世の中を「変えたい!」

と思うのであれば、変えることも

可能なのです。

 

アドラー心理学で私が実践している考え方

数あるアドラー心理学の考え方の

中でも、私が今一番意識して

実践しているのが「課題の分離」です。

 

アドラー心理学では課題に対して

その課題が「誰の課題か?」を

考えます。

 

そして「誰の課題か?」という観点から

「自分の課題」と「相手(他者)の課題」

に分類します。

 

分類が終わったら後は実にシンプルで

「相手の課題には介入しない」、

ただそれだけです。

 

ここで「課題の分離」を

具体例を交えて説明します。

 

あなたは友人から遊びに

誘われました。

 

しかしあなたは、他に

やりたいことがあったので

その誘いを断りました。

 

すると友人は、

「なら、いい!」と

少し語気を荒げて

そう答えました。

 

ここで「課題の分離」を

してみましょう。

 

友人の誘いを、受けるのか・

断るのかは「あなたの課題」

です。

 

対してあなたが出した答えに

相手がどう反応するか、

どう行動するかは

「相手(友人)の課題」

となります。

 

友人が語気を荒げたことに

対して、「断り方が悪かったかも」、

「誘いを受けた方が良かったかも」

などと悩む必要はありません。

 

友人が怒ろうと無視しようと

それは友人が決め、実行する

ことです。

 

そこにあなたが入り込む余地は

ありません。

 

もし友人の反応が気になり

「やっぱり行く」と答えるのは

相手に合わせた生き方です。

 

それにより、その場は

相手も機嫌をなおして

笑顔になり、あなたも

安心するかもしれません。

 

しかし、やりたくもない

ことを相手に合わせてやる

ことはかなりのストレス

となり、あなたの精神を

削ります。

 

あなたが考え方を変えない

限りは、それは今後もずっと

続くでしょう。

 

第一、あなたが誘いを断った

ことで怒ったり、無視をする

ような人のことを本当に

友人と呼べるのでしょうか?

 

怒ったり、無視をしたりする

理由は、「自分の思い通りに

ならなかった」とか、「せっかく

私が誘ってあげたのに」と自分の

方が立場が上と考えているから

でしょう。

 

それはもはや友人ではありません。

 

友人とは何の損得勘定もなく

付き合うことのできる人、

「信頼関係」で構築されている

人のことを言います。

jitensha-bike-harinezumi.hatenablog.com

 

社会生活を送る上では、

時には自分の意向に沿わない

ことにも合わせないといけない

場面は確かにあります。

 

私の場合は自分の精神に影響が

ないことは対立を避けるために

相手に意見などを合わせることが

あります。

※例:「犬と猫どっちが好き?」と聞かれた

時に相手に合わせる。(これで対立すること

滅多にないでしょうが…)

 

しかし、自分の精神に影響が出る

ことに対しては、対立することを

覚悟で自分の意見を述べるように

しています。

※例:休日に社員で遊びに行こうと

誘われた時に断る。

 

以上のことは職場での対応で、

プライベートに関しては

精神に影響がないことでも

自分の意見を述べるように

しています。

 

もしそれで離れていく人は、

自分とは合わなかったと

考えています。

※もちろん「離れていく」ことは

「相手の課題」であるので、相手の

自由ですし、私がどうこう考えたり

行動したりするものではありません。

 

アドラー心理学の本を読み、

このような考え方をするように

なってからはストレスもかなり

減りました。

 

もちろん考え方を変えたからと

いって、すぐに気持ちが切り替わる

ことはありません。

 

はじめの方はつらく感じること

でしょう。

 

しかし、はじめはつらいかも

しれないですが、考え方を変えないで

これから生きていく方が何倍もつらい

と思います。

 

時間はかかるかもしれませんが、

一度この考え方を参考に

過ごされてみてはいかが

でしょうか。

 

それでは、本日はこのへんで。

ではでは(^^)/

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

 

 

 

 

 

「信用」と「信頼」の違い(アドラー心理学の考え方を基に)

f:id:mokutan-bike:20190416224543j:plain

 

みなさん、こんにちは。木炭です。

 

みなさんは、「信用」と「信頼」の

違いをご存じでしょうか?

 

私はつい最近までは知らず、

そもそも意識したことすら

ありませんでした。

 

しかし、アドラー心理学の本を

読むことで2つの違いを知り、

「なるほどな」と思いました。

jitensha-bike-harinezumi.hatenablog.com

 

そこで、本日は

  • 「信用」と「信頼」の違い

 についてお話ししていこうと

思います。

 

「信用」と「信頼」の違い

辞書でそれぞれの意味を

調べてみると、

  • 信用:それまでの行為・業績などから、

       信頼できると判断すること。

  • 信頼:信じて頼りにすること。

             頼りになると信じること。

とあります。

 

一見似たような意味にも

見えますが、アドラー心理学

では「信用」と「信頼」を

明確に分けています。

 

どちらも「信じる」ということ

ですが、この2つの明確な違いは、

「条件付きであるかどうか」

という点にあります。

 

つまり、アドラー心理学では

  • 信用:「条件付き」で信じること
  • 信頼:「条件なし」で信じること

となります。

 

お金を貸すことを例に

考えてみましょう。

 

お金を貸すということは、

「返してもらう」という

条件が付いてきます。

 

つまり、お金を貸す行為は

「信用」によって成り立っています。

※「信用」がなければお金を貸すことは

  ないでしょう。

 

 対して、一切の条件なしに行う

行為などは「信頼」によって

成り立っていると言えます。

 

先日、アドラー心理学関連の本を

執筆されている岸見一郎先生が

出演されているテレビ番組を

見ました。

 

その番組の中で、岸見先生が

「信頼」についてお話される

場面がありました。

 

司会の方が岸見先生に対し、

「うちの子が宿題をしなかった

時に、つい“宿題しなさい”と

言ってしまうんです。」と

話す場面がありました。

 

それに対し岸見先生が、

「それはあなたが子どものことを

信頼していないからです。」と

言われたのをよく覚えています。

 

確かに子どものことを「信頼」して

いれば、わざわざ「宿題をしなさい」

と言う必要はないですから。

 

アドラー心理学では、対人関係の基礎

は「信用」ではなく「信頼」によって

成立しているとしています。

※対人関係とはもちろん親子関係も

 含みます。

 

また深い関係を築くには「信頼」は

必要不可欠なものとも言っています。

 

これからあなたが人と接する際、

自分の行為が「信用」によるもの

なのか「信頼」によるものなのか

意識してみてはいかがでしょうか?

 

それでは本日はこのへんで。

ではでは(^^)/

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

 

 

 

嫁さん(旦那さん)からの小言でイライラしない方法(アドラー心理学の考え方を基に)

f:id:mokutan-bike:20190416185614j:plain

 

( ※私は旦那なので、旦那の立場

から以下の記事を書きますが、

奥さんの方もぜひ参考にして

頂ければと思います。)

 

みなさん、こんにちは。木炭です。

 

世の旦那さん(奥さん)は、

嫁さん(旦那さん)の小言で

イライラしたり、ケンカしたり

することはありませんか?

 

「そんなことないよ(^-^)」

という旦那さん(奥さん)、

羨ましい限りです。

 

私はしょっちゅう嫁さんの

小言でイライラしたり、

ケンカしたり「していました」。

 

ですが、それはもはや

過去形のことであり、

今はイライラやケンカは

格段に減りました。

 

その理由は、私が最近

アドラー心理学の本を

読んで、考え方が変わった

からです。

jitensha-bike-harinezumi.hatenablog.com

 

 本日はみなさんに

私が実践している考え方を

お伝えしようと思います。

 

ここで注意して欲しいことは、

イライラやケンカが減ったのは

あくまで私の主観であり、

嫁さんはイライラしているかも

しれませんし、なんなら向こうは

ケンカしているつもりかもしれません。

 

しかし、ケンカというものは

総じてお互いがイライラしているから

起こるものです。

 

どちらか一方が冷静さを保つことが

できれば、自然と相手も冷静に

なっていくことと思います。

 

そうなればケンカには発展しない

ことでしょう。

 

したがって、これからお伝えする

考え方は、あくまで自分

(世の旦那さん、奥さん)が

イライラしなくなる方法であり、

ケンカ解消法ではないことだけ、

ご了承ください。

 

              

 

私が嫁さんに怒られるのは

決まって「家事」をしない

からです。

 

正確に言うと「嫁さんの

して欲しいタイミングで」

家事をしないからです。

 

私には私のタイミングがあり、

嫁さんには嫁さんのタイミングが

あります。

 

しかし、嫁さんは「自分の

タイミング」を私に強要しようと

してきます。

 

ここで、アドラー心理学

嫁さんが「なぜ怒っているか?」

を考えていきたいと思います。

 

「そんなの家事をしない

からでしょ!」と言われる

かもしれません。

 

しかし、アドラー心理学

考え方では少し違います。

 

一般的に物事を考える時、

原因論」で物事を考えます。

すると次のようになります。

  • 原因:(嫁さんのタイミングで)

      家事をしない

      ↓

  • 結果:声を荒げる(怒る)

となります。

 

一方、アドラー心理学では、

「目的論」で物事を考えます。

すると次のようになります。

  • 目的:声を荒げたい

      ↓

  • 「(嫁さんのタイミングで)

   家事をしない」ことを

   理由に使おう

となります。

 

ではなぜ「声を荒げたい」の

でしょうか?

 

それは相手よりも優位な立場に

立ちたいからです。

 

アドラー心理学では、

人はみな「優越性の追求」という

欲求があると考えています。

 

簡単にいうと「より優れていよう」

とする欲求のことです。

 

この「優越性の追求」ですが、

本来は今の自分よりも優れて

いようとする、つまり自分自身の

成長のためにあるものです。

 

しかし多くの人は、「他人よりも

優れていよう」、「他人よりも優位に

立ちたい」と思ってしまいます。

※そうなると「競争」となり、

アドラー心理学では「競争」は

するべきでないと考えています。

 

したがって、先ほどの

「声を荒げたい」理由は

旦那よりも優位に立ちたいから

あり、その目的を達成するために

「(嫁さんのタイミングで)家事

をしない」ことを理由として

持ち出したと考えます。

 

もし純粋に家事をして欲しいだけで

あれば、普通に「家事をして」と

伝えればいいだけの話です。

 

しかしそうせずに、

「怒り」の感情を生み出し、

声を荒げることで旦那より

優位に立とうとする、

それこそが嫁さんの目的

だったと考えます。

※なぜ嫁さんが私より優位に

立とうとしたかは色々な理由が

考えられますが、おそらく

家事をはじめ、家庭内における

様々な出来事を自分の思うように

したかったからではと考えています。

 

これで嫁さんが、

「なぜ怒っているのか?」が

分かったと思います。

 

ではなぜ私はこれまで

嫁さんから「家事をして」

と言われてイライラしていた

のでしょう?

 

それは単純に「家事をして」

ではなく、「私のタイミングで」

というニュアンスが含まれていた

からです。

 

  • 今すぐ!
  • 〇〇までに! 

などの制約が付いていたために

イライラしていたのです。

 

なぜこれでイライラするのかと

いうと、「私の課題」に

嫁さんが介入してきたからです。

 

アドラー心理学では、

「課題の分離」という

考え方があります。

 

「馬を水辺に連れていくことは

できるが、馬に水を飲ますことは

できない」という言葉があります。

 

これを「課題の分離」の

考え方に当てはめると、

  • 馬を水辺に連れていく

   ➡自分でできること

   ➡「自分の課題」

  • 馬に水を飲ます

   ➡馬しだいであり、

    自分ではできないこと

   ➡「相手の課題」

というようになり、

「自分の課題」なのか

「相手の課題」なのかを

分けましょうという考えです。

 

そしてアドラー心理学では、

「自分の課題」に介入されると

嫌悪感を示すと考えられています。

 

今回のケースに当てはめて

考えてみると、「家事をして」と

依頼することは「嫁さん自身の課題」

であり、何の問題もありません。

 

しかし、「家事をして」と伝えて

実際に家事をするかどうかは

「私の課題」になります。

 

それなのに、

  • 今すぐ(して)!
  • 〇〇までに(して)!

と付け足してしまうと、

「相手の課題」に介入して

しまうことになってしまいます。

 

そのために、私はイライラして

しまっていたのです。

 

今までの私であれば反発して

嫁さんと口ゲンカになって

いました。

 

しかし、今の私はアドラー

心理学の本を読んで

考え方が変わったことで

イライラすることは

ほとんどなくなりました。

 

では、どのように考え、

行動しているのかと言うと、

「自分の課題」を選択・決定し、

それを相手に伝えるように

しました。

 

私が思いつく提案は、

次の3つです。

  1. (相手のタイミングで)家事をする
  2. (自分のタイミングで)家事をする
  3. 家事をしない

この選択肢の中から、私は

「2」を選び、それを嫁さんに

伝えました。

 

すると嫁さんは、再び声を

荒げて怒りました。

「いっつもそう言って、

結局何もしないじゃん!」

 

私が「2」を選択して伝えた結果、

嫁さんはこのように怒りましたが、

嫁さんがどのような反応をしようと

それは「相手の課題」であり、

私は介入すべきではなく、

気にしても仕方がないことです。

 

なので私は特にイライラすること

なく、冷静に話を進めました。

 

話を進めていくと、どうやら

嫁さんは家事を「できれば今すぐに

、遅くてもその日の内にはして

欲しい」ことが分かりました。

 

私は自分のしたいタイミングで

家事をするのですが、それを待ち

きれない嫁さんが先に自分で

家事をして、結果私が家事をしない

という認識になっていたようです。

 

私は嫁さんに、「家事は自分の

タイミングでする。でも遅くとも

翌日中には終わらせる。」と

伝えました。

 

初めの方は渋っていた嫁さん

でしたが、最終的にはそれで

話に折り合いがつきました。

 

今までの私でしたら、

嫁さんから「〇〇して!」

と言われた時点でイライラし、

とても冷静に話し合いをする

ことはできず、自然沈下する

のを待っていました。

 

しかしそれでは話は前に

進まず、いずれ同じことで

ケンカになってしまいます。

 

どちらか一方(あなた)が、

冷静になり、話を進めることで

少なくともイライラしている状態の

時よりは生産的な話し合いができる

はずです。

 

考え方が変わったところで

すぐに実践することは

難しいかもしれません。

 

しかし、あきらめずにそう

している内に無意識に

そうできるようになります。

 

アドラー心理学の考え方を基に

冷静になり、有意義な話し合いを

して、幸せな夫婦(家族)生活を送れる

ようになればと思います。

 

それでは本日はこのへんで。

ではでは(^^)/

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

 

 

 

 

 

 

 

 

他人に合わせる生き方はやめた方がいい!(アドラー心理学の考え方を基に)


f:id:mokutan-bike:20190416095315j:image

 

みなさん、こんにちは。木炭です。

 

私は最近、アドラー心理学の本を読み、

考え方が変わりました。

jitensha-bike-harinezumi.hatenablog.com

 

そして私が強く感じたのは、

「他人に合わせる生き方は

やめた方がいい!」ということです。

 

言い方を変えると、

そのような生き方は「無駄」

だということです。

 

世の中には「他人に合わせた

方がいい」というような内容の

実用書がたくさんあります。

私も何冊か読みました。

 

しかし、それはたまたま

上手くいった人たちが

書いているだけで、

多くの場合上手くは

いきません。

 

私自身、これまで他人に

合わせた生き方をして

きましたが、それで

いいことがあった試しはなく、

かえって悪くなったことの方が

多いくらいです。

 

他人に合わせるために、

思ってもないことを言って、

したくもない付き合いをして、

なのに得られたのは

「その人にとって都合が良い人」

という称号だけです。

 

もし「その人」が、とてつもなく

偉い人であれば、「評価」という

形でその称号は役に立つかも

しれませんが、多くの場合は

そうではなく、役に立ちません。

 

そんな何の役にも立たない称号を

得るまたは維持するために

いったいどれだけの精神を

すり減らしたことでしょう。

 

その先に待っているのは

体調不良という名の破滅

だけです。

 

以上のことから私は

「他人に合わせた生き方」を

強く否定します!

 

では、どのような「生き方」が

良いのでしょうか?

 

私はアドラー心理学の本を読んで、

ズバリ「他人の評価を気にしない

生き方をしよう!」と思いました。

 

アドラー心理学では、

「課題の分離」という

考え方があります。

 

「馬を水辺に連れていく

ことはできるが、馬に

水を飲ませることは

できない。」という

言葉があります。

 

これを先ほどの「課題の分離」

に当てはめて考えてみると、

・馬を水辺に連れていく

  ➡自分でできること

  ➡「自分の課題」

・馬に水を飲ます

  ➡馬しだいであり、

   自分ではできないこと

  ➡「相手の課題」

というようになり、

「自分の課題」なのか

「相手の課題」なのかを

分けましょうという考えです。

 

そして、こちらが何かしらの

発言や行動をした結果、

相手がどう思うか、また

どう行動するかは自分には

どうしようもないことであり、

気にしても無駄である(「相手の

課題」には介入しない)という

ことです。

 

よくLINEで「既読がつかない」とか、

「既読スルーしている」とかを

気にしている人がいますが、

自分の送った内容に対し、

相手がどう思うか、どう感じるか、

返信するかしないかは相手しだい、

つまり「相手の課題」であるため

あなたが気にしても仕方のない

ことなのです。

 

ここで1つ気を付けて欲しい

ところは、「自分の好きなよう

にやる。」ということでは

決してないという点です。

 

「自分は好きなように発言するし、

好きなように行動する。

それによって相手がどう思おうとも

どう行動しようとも自分には

関係ない。」という訳ではありません。

 

あくまで相手とは対立

しないようにします。

しかし、対立しないように

するために自分の信念を

曲げたりだとか、どうしても

やりたくないことをやる等、

自分の精神をすり減らす程の

ことはする必要はないという

意味です。

 

ここはどうか間違わないで

ください。

これを間違ってしまうと

ただの「身勝手な人」に

なってしまいます。

 

私はアドラー心理学の本を

読んでから次のように

行動するようにしました。

 

職場で、職員のひとりが

結婚されました。

職場はお祝いムードで

私も純粋に「おめでとう」

という気持ちであったため

そのように伝えました。

 

その後、「結婚式の写真を

見せて!」だとか「結婚式は

どんなだった?」など結婚した

職員はみんなから質問責めに

あっていましたが、私は

それには参加しませんでした。

 

理由はすごく単純で、

「興味がないから」です。

 

もしかしたら職員の中には、

私のことを「冷たい奴」だとか

「空気読めよ」とか思った人も

いたかもしれません。

 

しかしそれは「相手の課題」

であり、私にはどうすることも

できません。

なので、気にするだけ無駄

なのです。

 

今までの私なら周りの反応を

気にして、したくもない

質問責めに参加していました。

 

ですが、そういう生き方には

もう疲れてしまいました。

そのように生きても精神が

すり減るだけで、良いことは

何もないからです。

 

おかげさまで、今の私は

周りのことを過度に気に

することがなくなり、

イライラしたりだとか

不安になることが

少なくなりました。

 

もし今の自分の性格や

生き方に嫌気が差している

方がいれば、いちど試して

みてはいかがでしょうか?

 

きっと心が楽になり、

世の中の見え方が

変わってくると思いますよ。

 

それでは、本日はこのへんで。

ではでは(^_^)/

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

 

 

 

アドラー心理学を読んで考え方が180°変わった話

 

f:id:mokutan-bike:20190413151954j:plain

 

みなさん、こんにちは。

 

最近、「嫌われる勇気」という

アドラー心理学関連の本を読み、

私の考え方がガラッっと

変わりました。

 

私はこれまですぐにイラっと

してしまう、いわば短気な

性格だったのですが、

この本を読んでからは

考え方がガラッと変わり、

以前ほどイラっとすることが

なくなりました。

 

この本を読んで学んだことや

感じたことを書いていきます

ので、もし「今の自分(の性格)

を変えたい」と考えている人がいれば、

参考にして頂ければ幸いです。

 

 

 はじめに

アドラー心理学とはなにか?」

については、検索するとたくさん

出てくると思いますので

ここでの説明は割愛させて頂きます。

 

アドラー心理学の考え方は

たくさんあるのですが、

とりあえず大まかな部分を

理解するために必要と思われる

考え方を書いていきます。

 

それがこれらになります。

  • 目的論
  • 課題の分離
  • 「善」の意味
  • 優越性と劣等性
  • 性格(ライフスタイル)

 

それでは、これらの

ひとつひとつについて

解説していきます。

 

目的論

世間一般では「原因論」という

考え方が主流です。

 

例えば、「子供の頃に音痴と言われた。

だから人前では歌えない。」という

人がいたとします。

 

原因論での考え方では、

  • 音痴と言われた(原因)

      ↓

  • だから人前では歌えない(結果)

という風になります。

 

しかしアドラー心理学では

この考え方(原因論)を

否定しており、

次のように考えます。

  • 人前で歌いたくない(目的)

      ↓

  • 子供の頃に音痴と言われた

   ことを理由に使おう

 これが目的論の考え方です。

 

少し「ん?」となり、

理解するのが難しいと思います。

 

アドラー心理学(目的論)では

この人は「歌えない」のではなく、

「歌いたくない」のだと解釈します。

 

ではなぜ「歌いたくない」

のでしょうか?

 

その理由には様々なものが

考えられます。

  • 他人に歌が下手だと思われたくない
  • 自分の声が気持ち悪く、自信がない

 

いずれにせよ、何かしらの理由により

「歌いたくない」という目的があり、

その目的を達成するために

「子供の頃に音痴と言われた」

という経験を目的を達成するための

手段(理由)に使ったのです。

 

「そんなこと言っても

音痴と言われて人前で

歌えないのは事実だ!」

と言う人もいることでしょう。

 

確かに「音痴と言われた」経験が

「人前で歌えない」ということに

影響を与えているのは事実です。

 

しかしあくまで「影響を与えているだけ」

であり、人前で歌えないことを「決定」

している訳ではありません。

 

人前で歌えないことを「決定」したのは

他の誰でもない「あなた」なのです。

 

音痴と言われたとしても、

音痴という事実を受け入れ

歌を練習したりとか

気にせず楽しく歌うとか

選択肢はいくらでもあります。

 

アドラー心理学では経験

(ここでいう「音痴と言われた」)

にどういう意味付けをするか

が大切だと言っています。

 

「音痴と言われた」経験に、

  • 恥ずかしい
  • かっこ悪い

などといったネガティブな

意味付けをするのではなく、

  • 音痴であると知れた
  • 音痴だから何なんだ

などポジティブな意味づけを

する方が、その後の行動も

ポジティブなものになります。

 

課題の分離

これは簡単にいうと

「自分で決定できることと

決定できないことを分ける」

ということです。

 

「馬を水辺に連れて行く

ことはできるが、馬に水を

飲ませることはできない」

という言葉があります。

 

これを「課題の分離」

に当てはめると、

  • 馬を水辺に連れて行く

   →連れて行くか行かないか

    自分で決定できる

  • 馬に水を飲ます

   →水を飲むかどうかは

    馬しだいで自分には

    決定できない

ということになります。

 

そして「自分で決定できないことに

関しては介入するべきではないし、

無駄なこと」として考えます。

 

例を挙げて説明します。

勉強をしない友人がいます。

今度のテストは難しく、

このテストで赤点をとると

留年してしまいます。

 

ここで、「今度のテストは

難しい。勉強しないと留年

してしまうかもしれないよ。」

と注意喚起するかしないかは

自分で決定できることであり、

「自分の課題」となります。

 

一方「友人が勉強するかどうか」は

自分では決定できないことであり、

「友人の課題」となります。

 

ここでしつこく友人に

「勉強しろ!」と言う、

つまり友人の課題に介入

してしまうのは良くありません。

 

人は自分の課題に踏み込まれると

嫌悪感を示してしまいます。

 

「勉強した方がいいよ。」と

促すだけにとどめ、

それ以上は介入しないように

しましょう。

 

ここで注意したいのは、

「突き放すわけではない」

ということです。

 

友人が助けを求めてきた際に

「援助」という形で

いつでも手を差し伸べられる

ようにします。

 

  • おすすめの参考書を教える
  • 勉強を教える

などでしょうか。

 

「でも、勉強した方がいいと

促したのに、後から助けを

求められても釈然としない。」

と感じられる方もいるのでは

ないでしょうか?

 

このような感じ方をされる人は、

次のような考え方をしがちです。

 

「親切で言ってあげたのに、

そうしなかったのはあなた

じゃないか。」

という考え方です。

 

この考え方は、アドラー

心理学として考えた時に

2つの間違いがあります。

 

1つ目は、

「言ってあげた」と

上から、つまり

自分≫友人と優劣を

つけてしまっている

ことです。

※「優劣に関しては」後で説明します。

 

2つ目は、

「勉強した方がいい」と

促したのに、友人が

自分の思い通りの行動を

取らなかったことに対する

不満を抱いているという

ことです。

 

促しに対し「勉強するかどうか」

は友人の課題であるため

思い通りにならなくて当然

なのです。

 

「それでも納得できない!」

という人はその友人と関係を

解消してはどうでしょうか?

 

そもそも、その友人と関係を

結んだのは誰かの命令では

なく、あなた自身で決定した

ことです。

 

その人と友人でいることは

損得勘定ではないでしょうし、

もしそうであるなら、それは

友人とは呼べないでしょう。

 

長くなりましたが、

最終的に「勉強するかしないか」を

決めるのは友人です。

 

「自分の課題」か「相手の課題」か

を明確に分離し、「相手の課題」には

介入しないようにしましょう。

 

「善」の意味

「善」という言葉を

辞書で引くと

  • 正しい
  • 道徳にかなった

という意味が出てきます。

 

しかし、ギリシャ語での

この「善」という言葉は

  • (自分の)ためになる

という意味であり、ここに

道徳的な意味はありません。

 

アドラー心理学では、

この「ためになる」という

意味で「善」という言葉を

使用します。

 

例えばコンビニで傘を

盗んだ人がいたとします。

 

傘を盗むことは、

道徳的には「善」では

ありませんが、

アドラー心理学として

考えた時、盗んだ当人に

とっては傘を盗むという

行為は「善」になります。

 

その理由は、傘を盗むことで

「これで自分は雨に濡れなくて

済む」となり自分にとって

「ためになる」からです。

 

先程の「傘を盗む」といったように

この世は「行為としての悪」で

あふれています。

 

しかし悪事を働く人たちも

純粋に悪を求めて実行している

のではなく、「目的があって」

実行しています。

 

例えば銀行強盗をした人が

いたとします。

この人は純粋に銀行強盗を

したかったのではなく、

お金が欲しいためにやった

のかもしれません。

 

「それでも愉快犯なんかは

純粋に銀行強盗をしたくて

したんじゃないのか?」

と考える人もいるでしょう。

 

しかし、純粋に悪を求めて

実行する人はいません。

 

一見愉快犯の犯行のように

思われても、「目立ちたかった」

「警察と対立したかった」など

必ず何かしらの「目的」がある

はずなのです。

 

その目的を達成するための

手段(理由)として銀行強盗を

決定したのであって、

この人にとって銀行強盗という

行為は「善」となります。

 

 したがって、世の中にある

犯罪やマナー違反などは、

自分から見ると「悪」に

なるとしても、実行している

当人にとっては「善」と

なるのです。

 

優越性の追求と劣等感

人は誰しも「優れていようとする」

欲求があり、アドラー心理学では

これを「優越性の追求」と

表現しています。

 

「優れていようとする」ことは

とても良いことなのですが、

多くの人は「今の自分と比べて」

でなく、「他人と比べて」

優れていようとする傾向にあります。

 

つまり「他人よりも優位に立ちたい」

という気持ちになってしまいがち

ということです。

 

さらには「怒り」という感情は

他人よりも優位に立つための

「道具」として使用されると

言っています。

 

この例としては、

最近話題になっている

煽り運転」があります。

  •  自分の車の方が高級だ
  • 自分の方が速い

などという考え(優越性)があり、

それなのに、

  • 自分の車を抜かした
  • 自分の前をトロトロ走ってる

といった行為に対し、自分の

優越性を示すためにクラクション

を鳴らしたり、パッシングをしたり、

車間距離を詰めるといった行動を

取ります。

 

さらにはこの行動をやりやすくする

ために、「怒り」という感情を

作り出します。

 

アドラー心理学では、

人はみな対等の存在であり、

そこには上下関係も優劣も

存在しないとしています。

 

したがって「優越性の追求」は

他人ではなく、今の自分よりも

優れていようとするべきもの

であると考えます。

 

上で述べた「優越性(の追求)」と

対になるのが「劣等感」です。

 

「劣等感」も「優越性(の追求)」と

同様に誰にでもあるものと

言われています。

 

そしてアドラー心理学では、

この劣等感は、「客観的な事実」

ではなく、「主観的な解釈」である

というように考えています。

 

「嫌われる勇気」にある

例えをそのまま引用します。

 

身長160cmの成人男性が

いたとします。

 

日本人男性の平均身長は

約170cmですから、

客観的に見ればこの男性は

「身長が低い」ことに

なります。

 

しかし大切なのは、

そういう「客観的な事実」

ではなく、あくまで

「主観的な解釈」だと

アドラーは言います。

 

「嫌われる勇気」の

本の中では、身長が

低い(小柄である)おかげで、

相手の警戒心を解くことが

でき、気兼ねなく話をする

ことができるという風に

解釈しています。

 

これを、身長が低いために

  • かっこ悪い
  • 子供扱いされる

などという解釈をしてしまうと

さきほどの「劣等感」となって

しまいます。

 

ちなみに先ほどの

煽り運転の例で述べたように、

不適切な方法で相手より

優位に立ちたい、立たなければ

気が済まないと考えている人は

「優越コンプレックス」がある

と言います。

 

この「優越コンプレックス」

がある人は、なにかしらの

強い劣等感を持っています。

 

強い劣等感に苦しみながらも

努力や成長といった健全な手段に

よって「優越性」を満たすことが

できないために、偽りの優越感で

ごまかしているのです。

 

他の例としては、

有名大学の学生に対し、

「頭は良いけど、

コミュニケーションは下手だよね。」

と言う人が挙げられます。

 

これは、勉学では劣っているという

劣等感をコミュニケーションでは

優れているという優越感で

ごまかしているのです。

 

「優越性の追求」は、

他人と比べてでなく、

今の自分と比べて

実施するようにしましょう。

 

 性格(ライフスタイル)

「私はこういう性格だから」

という人がいます。

 

その性格に満足しているので

あれば問題はないのでしょうが、

自分の性格に不満を持っている、

変えたいと思っている人も

少なくないと思います。

 

アドラー心理学では「性格」の

ことを「ライフスタイル」と

表現しています。

 

そしてアドラー心理学では、

「性格(ライフスタイル)」は

変えることができるとしています。

 

まずこのライフスタイルですが、

アドラー心理学では

10歳前後に自分自身で選択した

ものと考えられています。

 

つまり、意識下であるか

無意識下であるかは分からないが、

今の自分の性格(ライフスタイル)は

自分自身で選択、決定したものであり、

したがって変えることも可能であると

しています。

 

 例えば混雑した場所で

他人に自分の足を踏まれた

とします。

 

原因論の考え方では、

  •  足を踏まれた(原因)

      ↓

  • だから怒鳴った(結果)

 という風になりますが、

アドラー心理学ではこの

原因論の考え方を否定しており

目的論で考えます。

 

すると、

  •  怒鳴りたかった(目的)

      ↓

  • 足を踏まれたことを

    理由にして怒鳴った

 となります。

 

ではなぜ怒鳴りたかった

のでしょう?

 

それは先ほど述べた

誰にでもある「優越性の追求」

これを満たしたかったからです。

 

怒鳴ることで相手を威圧、

屈服させ自分が正しいと

認めさせることで

自分が優位に立つためです。

 

さらには「怒鳴る」ために

「怒り」という感情を

作り出したのです。

 

まず足を踏まれたとしても

ダメージがないのであれば

スルーすればいいですし、

謝って欲しいのであれば

怒鳴らずに、普通に

そう伝えれば良いだけの

話です。

 

それらを面倒に感じ、

簡単に相手より優位に

立つために、「怒り」という

感情を作り出し、怒鳴ったのです。

 

つまりこの足を踏まれた男性は、

「優越性の追求」を満たすために

怒りという感情を使う傾向にあり、

それが自分にとってためになる、

つまり「善」と判断したため、

短気な性格を選択、決定したのだと

考えられます。

 

しかし、「優越性の追求」はあくまで

今の自分よりも優位になるため

(成長するため)に追求するもので、

他人よりも優位になるために

追求するものではありません。 

 

このことを理解していれば、

「怒鳴る」必要はなくなり、

「怒り」の感情を作り出す

こともなくなります。

 

そうなれば、この人は

もはや短気な性格では

なくなる(変わる)でしょう。

 

変える(変わる)ことの勇気

それでも、

「何度も性格を変えようと

したけど変えられなかった!」

という人がいることでしょう。

 

しかし、それも自分自身が

「性格を変えないでおこう」と

選択・決定しているからなのです。

 

なぜかというと、性格を変えないで

いることが自分自身にとって「善」、

つまり「ためになる」と判断している

からです。

 

そう判断する多くの理由としては、

「性格を変えたことで起こる変化」

が怖いからです。

 

例えば何でも周りに合わせて

しまう性格の人がいたとします。

 

その人は自分のそんな性格を

嫌っており、変えたいと思って

います。

 

もし、必ずしも周りに合わせない

性格に変えた時にどのようなことが

起こりうるでしょうか。

 

ノリが悪くなったと言われ、

友人関係が希薄になるかも

しれません。

 

他人と違う意見を言うことで

グループから孤立するかも

しれません。

 

多くの人は、上のような

「漠然とした不安」に

恐怖心を抱き、「それなら

今のままでいいか」と

変える(変わる)ことを

やめます。

 

そのため、変える(変わる)

には「勇気が必要」と

アドラー心理学では

言っています。

 

アドラー心理学で考えると

「周りに合わせない」のは

自分の課題ですが、

「それによる周りの反応・行動」

は相手の課題であり、自分には

どうすることもできません。

 

「今の自分の性格を変えられない」

のではなく、「恐怖心のために

変えようとしていない」のです。

 

変える(変わる)ことは容易では

なく、「勇気」が必要なのです。

 

私の考え方が変わった話

最後に私の考え方が変わった

話をさせてください。

 

私の性格は短気ですが、

イラっとしても「怒鳴る」など

表に出すことはありません。

 

あくまで内心でイライラ

しているだけです。

 

ニュースなどで世の中の犯罪や

マナー違反を見るたびに、

イライラしていました。

 

しかし、ある日「嫌われる勇気」

というアドラー心理学関連の本と

出会い、私の考え方が変わることで

イライラが減りました。

 

 アドラー心理学で考えると

私自身が、短気だが

それを表に出せない性格

(ライフスタイル)を選び、

決定したことになります。

 

ではなぜそのような性格を

選択、決定したのか

考えてみました。

 

まず私はすごく怖がりです。

他人に嫌われることや、

敵意を向けられることに

ひどく怯えています。

 

しかしこの「怖がり」な

一面をいつの日か「恥ずかしい」

と思うようになりました。

 

「本当は怖がりなんだけど、

周りからはそう思われたくない」

という風にです。

 

そこでたどり着いた性格が

「短気」なのです。

 

怒っていると周りからは

怖がっているようには

見えないし、

他人に嫌われたり

敵意を向けられたりしても

「いや、怒ってるのは

こっちだし。こっちも

お前のこと嫌いだし。」

とごまかすことが

できたのです。

 

私は「嫌われる勇気」を

読むことで、このように

自己分析ができました。

 

私はこの性格で

色々とトラブルを起こしたり、

巻き込まれたりしてきました。

 

なのでこの性格を強く

変えたいと思っています。

 

考え方は変わりましたが、

実践するのは簡単なこと

ではありません。

 

今でも「怖がり」なことを

恥ずかしいと思っていますし、

それを隠すために(偽りの)

怒りの感情を作り出して

ごまかしそうになります。

 

時間は掛かるでしょうが

自分自身の考え方・感じ方を

変えることで、不満のない

性格になりたいと思います。

 

この記事を読んで下さり、

今の自分を変えたいと

思っている人たちの

助けになったり、

アドラー心理学に関心を

示してもらえれば、

これほどうれしいことは

ありません。

 

それでは、本日はこのへんで。

ではでは(^^)/

 

 

 (※他にこんな記事も書いています☟)

jitensha-bike-harinezumi.hatenablog.com